尖閣諸島は中国の領土である 2

アメリカの仕掛け 2013.01.25 の記事

戦前の日本  日米対決の時代

明治維新以降の日本は、はっきりと帝国主義的な野望を持って、領土的野心を持って、欧米列強に伍して世界に覇を唱えるべく、アジアを侵略しました。特に、日露戦争に勝利した後の日本は、増長して狂気の時代へと突入していきましたから、それを危険視、あるいは敵視するアメリカと衝突するのは必然であり、日本を壊滅させようと周到な準備をしてきたアメリカに、まんまと真珠湾におびき出され、文字通り完膚無きまでに叩きのめされてしまいました。

昨今とみに、戦前の日本は良かった式の、懐古趣味的な議論があります。

日本が戦った大東亜戦争は黄色人種を白人から解放するための聖戦だった、いまアジアが白人支配のくびきから脱出できているのは日本人が決死の覚悟で白人と戦ったからだ、アジアの多くの人が日本に感謝している、戦前の日本には良い風習がたくさんあったが、戦後アメリカに占領されてその良さを破壊された、うんぬん、という論調です。

しかしそういう主張は、これまで、戦前的なものがあまりにも悪く言われてきたことに対する反動であり、故なしとはしないのですが、しかし反動も行き過ぎれば、振り子が反対側まで行って、真実から離れてしまいます。

戦前の軍部や特高警察が、国民を無視した狂気の集団であったことは否めない事実です。
小林多喜二の死はその典型です。一般の警察も強圧的で、「オイコラ警官」と呼ばれており、往来する市民をオイコラと呼びつけることがしばしばでした。軍部の南方進出は、アジア解放の美名のもとに、実は石油や鉱物資源を求めての侵略でした。
戦前の日本が「美しい日本」だったとは、そういう面もありますが、そうでない面もあります。

ところで、前項で紹介した安倍論文の後段には次の記述があります。

私が描く戦略は、オーストラリア、インド、日本、米国ハワイによって、インド洋地域から西太平洋に広がる海洋権益を保護するダイアモンドを形成することにある。私はアジアのセキュリティを強化するため、イギリスやフランスにもまた舞台にカムバックするよう招待したい。海洋民主国家たる日本の世界における役割は、英仏の新たなプレゼンスとともにあることが賢明である。英国は今でもマレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドとの五カ国防衛取決めに価値を見いだしている。私は日本をこのグループに参加させ、毎年そのメンバーと会談し、小規模な軍事演習にも加わらせたい。タヒチのフランス太平洋海軍は極めて少ない予算で動いているが、いずれ重要性を大いに増してくるであろう。

おやおや、という感じです。

大東亜戦争で銀輪部隊がシンガポールを攻略して英軍を降し、陸軍の加藤隼戦闘隊がインドネシアを支配していたオランダ軍を駆逐し、海軍航空隊がマレー沖で英国の新鋭戦艦2隻を撃沈し、そして日本軍はアジアを解放したのです。
南方進出には資源に対する欲望がありましたが、結果としてアジアを白人の支配から解放したことも事実であり、それは世界史における日本の偉業です。

安倍総理は中国を封じ込めるために、もう一度英仏をアジアに呼び戻そうというわけですが、それでは靖国神社の英霊に申し訳がありません。

さて、戦前の狂信的状況の中で、冷静を保っていた数少ない人々のうちの1人が、昭和天皇です。226事件の軍部クーデターを、自ら出て鎮圧するとまで言って、断固として鎮圧させたのは昭和天皇です。対米開戦も最後までOKを出しませんでした。しかしこれは立憲君主の法制上、内閣が決定すれば天皇は反対できませんから、対米開戦に至りました。


上の写真は、30年ほど前に私がアメリカにいた時に、古本屋で見つけて購入した、日米開戦1年半前のライフ誌の表紙です。 親日家として知られた米国のグルー大使が、「いま日本で、戦争回避に向けて冷静に話が出来るのはヒロヒトだけである」と語っています。

終戦時にポツダム宣言を受諾したのも昭和天皇の決断です。

昭和天皇は法律を守りつつ粘り強く臣下を説得し、御前会議の最後には大臣も将軍も涙にくれたということです(それじゃ困るのですが)。最後に軍部が玉音盤奪取のために皇居に乱入するクーデターが起きたりしましたが(未遂)、終戦は昭和天皇の強い意志で間一髪で実現しました。

もし昭和天皇の決断が実現できず、軍部の言うように本土決戦が行われていたら、あの小さな沖縄本島を米軍が全力をあげて強襲して3ヶ月もかかったのですから、本土となれば1年以上かかり、その間に北からソ連が侵入し、わが国は国家統治の中枢を失って、米ソによって分割統治され、今の朝鮮半島のように、北と南でいがみ合う国になっていたでしょう。

戦後の日本 対米従属の時代

日本の戦後復興は、日本人だけの力でできたのかというと、そうではありません。

アメリカ占領軍による、憲法制定、農地解放、財閥解体、女性解放、労働運動の解禁、などの先進国では当たり前になっていた民主的制度の導入が、占領軍の強権で行われ、それが戦後日本の復興や産業の発展に大きな役割を果たしたのです。

先日、女性の権利などを日本国憲法に盛り込んだ功労者である、ベアテ・シロタ・ゴードンさんが亡くなりましたが、まだ20代だった彼女が必死で徹夜で作り上げた日本国憲法草案が、日本の民主化と復興に果たした役割は、たいへん大きかったのです。

平和憲法ではっきりと戦争放棄をうたったことも、「日本は、とにかくもう戦争はしないんだ」という日本人の覚悟となり、経済建設にまい進できた背景となっています。

また、戦前の日本は財政的に破綻していました。

国家総動員体制で庶民の金を集め、それらの金で分不相応の軍備に狂奔し、戦艦大和などを作りましたが、国は借金だらけでした。ちょうど、今の政府と同じです。戦争に負けたから破綻したかのように思われがちですが、勝っても破綻していたのです。

その状況を救ったのが戦後の財政改革、税制改革であり、それは占領軍の強権発動によって初めて可能でした。それまでの紙幣を無効とし、国民の預金を封鎖して強制的に新しい紙幣に切り替えてしまい、政府や軍部の大借金をチャラにしたわけです。普通の政府ではそんなことはできません。アメリカの占領軍だからできたのであり、結果として、日本はアメリカに救われたのです。

また、「これでは国体が維持できていない」などと、条文をめぐっていろいろと議論があった中で、「これでよい」と言って占領軍が作った新憲法を承認したのも昭和天皇の決断です。

昭和天皇は終戦後、疎開していた皇太子に葉書を書いて、このたびの戦に負けたのは日本に科学的精神が足りなかったからだ、と言っています。

昭和天皇は皇太子の家庭教師にバイニング夫人というアメリカの女性をつけました。今上陛下はアメリカ人に教育されたのです。昭和天皇は若いころから親英、親米の思想の持ち主でしたが、戦後はアメリカに深く感謝していました。訪米されたときは各地でアメリカに対する感謝の気持ちを述べられて、全米で大歓迎を受けました。

ただし昭和天皇は、昔からの日本的なものをすべて捨て去ったり、それまで国粋主義的な主張をしていた人が、急に変わって安易に時代に迎合しようとすることを戒めました。終戦から4ヶ月後の昭和21年正月の歌会始の御製

降り積もる深雪に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

はそのことを言っています。

これを「苦難に耐えて頑張れ」という意味だと解釈する人が多いのですが、それなら「雪でも枝が折れない」という表現になるはずです。「色変えぬ」と常緑の松葉の色について詠んでいるところがこの歌のポイントで、戦中の指導者たちが次々に米軍に捕えられて裁判にかけられ、教科書が真っ黒に塗られ、日本共産党が米軍を解放軍と呼ぶなど、国民の思想が大きく旋回しようとしていた時期に、その後の思想的混乱、社会的混乱を予見して、時代に流されずにしっかりと信念を持とう、と国民に呼びかけた歌です。

最近とかく、戦後的なものを排除して戦前的なものに回帰したい、という論調がありますが、戦後の日本には、戦前にはなかった良い点もたくさんあります。

カイロ宣言はどうなったのか

カイロ宣言は、敗戦国日本が、それまでに中国から奪った領土をすべて中華民国に返すことを求めています。それに従って日本は、台湾を中華民国に返還しました。では、その終戦時になぜ、日本は尖閣諸島を中華民国に返還しなかったのでしょうか?

それは、アメリカが沖縄を占領していたからです。

つまり、終戦時に尖閣を手放さなかったのはアメリカの意思です。中華民国の蒋介石は、それに対して文句を言える立場ではなく、また国共内戦でそれどころではありませんでした。アメリカは尖閣を射爆場として使いました。

1949年に中国本土で中国共産党が勝ち、蒋介石の中華民国は台湾に逃げ込みました。

ちょっと話がそれますが、このとき逃げる国民党軍を追って共産軍が台湾海峡を渡ろうとしており、連戦連敗の国民党軍はまさに風前の灯でした。そのとき、日本の軍人だった根本博中将が日本から漁船で単身密航して、この戦いに参加して、国民党軍を救いました。作家の門田隆将氏の「この命、義に捧ぐ」という本で紹介されています。
根本中将は戦時、内蒙古で日本軍を率いており、終戦とともに内地の参謀本部から武装解除を命令されましたが、危険を感じて命令には服さず、武装を維持したまま、避難民を連れて中国大陸をはるばる横断し、全員をほとんど無傷で日本に連れ帰りました。その時、大陸を横断するために蒋介石の恩義を受けたのです。その恩を返すために、根本中将は単身台湾に急行し、国民党軍に合流して、これを指揮して見事に共産軍を打ち破りました。
蒋介石はこのことを深く感謝して、根本中将に花瓶を贈りました。蒋介石は3対の豪華な花瓶を作っており、1対は英王室に、1対は日本皇室に贈り、1対を自分で持っていました。その片方を根本中将に贈ったのです。蒋介石の感謝の深さがうかがえます。

さて、1951年にサンフランシスコで講和条約が結ばれ、日本の占領は解かれました。

そのときすぐに、中国共産党の周恩来は中国を代表する意思として、釣魚島の領有権に言及し、沖縄がまだアメリカの占領下にあるのですぐには実現しないことを承知で、日本はカイロ宣言を履行すべきだと「釘を刺した」のです。

沖縄返還と日中国交回復

1972年にアメリカが日本に沖縄の施政権を返還しました。このとき、尖閣諸島も沖縄に帰属するものとして日本に返還しました。そして今アメリカは、尖閣諸島は日米安保の対象だと言っています。つまりアメリカの意思は現在でも、尖閣諸島は日本に帰属させておきたいということです。

このことをもって、尖閣が日本の領土である証拠だという人がいます。政府筋にもそういう見解があるようです。しかしそういう考えこそがアメリカ追従で、尖閣諸島が日本の領土であるかどうかを、アメリカに認定してもらおうというのは、知らぬ間に身についた属国根性です。

昨年8月に釣魚島に強行上陸した香港の「保釣(ほちょう)行動委員会」のリーダーは、雑誌アエラ(2012.11.26)のインタビューで次のように言っています。

「釣魚台は本来、1972年の沖縄返還の際、中国に返還されるべきだったが、米国はそれをしなかった。将来、日本と中国が国交を結ぶことが確実だったため、日中接近を望まない米国は日中に対立の芽を残したのだ」

この、香港の団体は1970年にアメリカのプリンストン大学に留学していた台湾の学生が結成したものだそうで、すなわちアメリカ発祥ですから、いろいろと裏がありそうですが。

結果としてアメリカが、「日中対立の芽を残した」ことは事実ですが、アメリカの意図としては、尖閣諸島を日本領(=アメリカ領)としておくことは、アメリカの将来の対中戦略にとって重要だ、という普通の判断だったろうと思われます。
さて、沖縄返還のすぐあと、佐藤首相はそれを花道に退陣し、自民党の熾烈な選挙戦の結果、大方の予想を裏切って田中角栄氏が福田赳夫氏を破って自民党総裁に選ばれ、首相となりました。

実はこの総裁選では、中国が強い影響力を発揮しました。ニクソン訪中で米中が和解してしまい、あわてた日本では日中国交回復を求める声が強くなっていました。そのとき中国政府は、親台湾派の福田では国交回復はできない、田中ならできる、と言ったのです。

そして1972年9月に田中首相と大平外相は訪中して、日中国交が回復しました。

田中、周恩来の北京での交渉では、尖閣諸島の問題は「棚上げ」となりました。これは、その決定権が田中首相ではなくアメリカにあることを、老練の周恩来は承知していましたから、日本に強くは言わなかったのです。しかし、領土問題は未解決であると釘をさしておいたわけです。

その後はずっと、ときどき中国側が仕掛ける海上での小競り合いはありましたが、基本的には「棚上げ」状態が続き、日本はアメリカの庇護のもとで実効支配を続けていたわけです。その間、中国経済は日本の投資や援助で拡大を続けました。そして今の中国があります。
ところで、佐藤は福田に譲るつもりでした。福田もそのつもりでした。しかし田中の物量作戦(現金)と中国の介入で、文字通り「番狂わせ」で田中首相が誕生したわけです。福田、田中の順だったら、日本経済はもう少しゆっくりとした持続的な成長をしたでしょう。田中が先にやって、列島改造論で一気に経済拡大策をとって失敗し、オイルショックもあって経済が回らなくなり、田中は三顧の礼をもって福田を蔵相に迎えました。

アメリカは、佐藤、福田という親米政権でつなぐつもりでしたから、中国の介入で田中が首相になったことを快く思っておらず、さらに田中がその後、アメリカに対して自主独立路線を取り始めたので、東京地検の特捜を使ってロッキード事件を起こし、田中角栄を追放しました。

このように日本は、アメリカにコントロールされているのです。
最近では小沢一郎氏に対する、地検特捜の執拗な追及がありました。

尖閣の風雲

そして2010年、民主党政府の前原誠司国土交通大臣が、所管の海上保安庁に命じて、尖閣諸島を航行する中国船を追い回しました。それまでは、巡視艇は強硬な措置はとらず、漁船が出て行くのを待つことが多かったのですが、この時はいきなり追い回しました。

その時、中国船が海保の巡視艇に体当たりした・・・・ということになっていましたが、映像を見れば、海保の巡視艇が、逃げ回る中国船の進路を妨害し、そこに中国船が吸い込まれるようにして衝突していました。

海保は中国船長を逮捕し、政府は法に従って粛々と裁くと言いながら、沖縄の検察官が外交に配慮して勝手に釈放したという、日本国民の誰ひとりとして信じない理由で船長を空路中国に送還しました。船長は英雄として故郷に凱旋しました。

たぶん菅総理は、前原が勝手なことをして、と怒っていたでしょう。この件については、その前に前原大臣とヒラリー・クリントン国務長官との会談があり、当時から、何やらアメリカの影が見え隠れしていました。

その後、2012年年4月に突然、石原慎太郎氏が訪問先のアメリカのヘリテージ財団での講演で、尖閣諸島を東京都が買うと言いだしました。石原氏は、国が何もしないから東京都がやるのだという、理解しがたい奇妙な理屈を言い、また、国有化すると中国が怒るから東京都が買うのだとも言って、国有化が中国を刺激するという認識を述べました。

しかし東京都が外交問題を扱うのは初めから筋が違いますから、野田総理は国が買い上げることにして、国有化に踏み切りました。すると、石原氏の予測通り、中国は烈火のごとく怒り、国営の大規模デモを組織して中国内の日本企業を焼き討ちし、日中国交回復40周年事業はすべて吹き飛び、中国から日本への観光客も激減して、日本経済は大きなダメージを受けました。

尖閣国有化は小泉政権から

ところが、2013年1月24日の毎日新聞が伝えていますが、尖閣諸島の国有化は小泉政権からの引き継ぎ事項だったということです。

毎日新聞 2013.01.24↓

藤村氏は、

尖閣の買い取りについては野田政権が一昨年9月に発足した際に引き継ぎを受けた。自民党の小泉政権の終わりごろから水面下で交渉は進んでいた。政府は内閣官房に室を設け、外務省などとやりとりしながら尖閣の地権者と代替地について交渉していた。石原慎太郎東京都知事が昨年4月、「都が買い取る」と不規則発言をしたことが、事態が急転するきっかけにはなったが。

と、真相を明らかにしています。

え、そんなことバラしていいの?と驚きましたが、これで事情はかなり明白になりました。

小泉政権は、岸、佐藤、福田の親米の流れをくみ、さらに超がつくほどの親米政権です。何しろ目玉政策の郵政民営化がアメリカの指示だったほどですから、尖閣の国有化もまたアメリカの意思だったということでしょう。アメリカは、日本が尖閣を国有化することで、中国を刺激して反応を見ようとしたのです。ところが、日本政府がぐずぐずして、内閣が何代も代わってもそれをやらなかったので、ヘリテージ財団が石原氏をつついた・・・・ということのようです。

アメリカの挑発

アメリカは、オスプレイの沖縄配備を強行し、さらにステルス戦闘機を9機、沖縄に配備しました。

オスプレイは大量の兵員を滑走路のない地域に派遣できます。
ステルス戦闘機はレーダーに映らずに一方的にミサイルを撃てるので、演習では在来型の戦闘機144機を撃墜して連戦連勝しており、中国の戦闘機は束になってかかっても、これと戦えば一瞬で全滅させられてしまいます。

状況はどうも、アメリカの意図として、日中戦争の方向に進んでいるようです。
少なくとも、尖閣で局地戦ぐらいは起きてもよい、とアメリカは考えているようです。

そして、まさか日本は負けないだろうが、万一のためにオスプレイとステルス戦闘機を沖縄に置いておこう、ということです。もし中国が尖閣諸島に戦闘機や軍艦を出してくればただちに攻撃する、という手筈に、日米間でなっていると思われます。

歴史的にも地理的にも、尖閣諸島は中国の領土です。ですから、中国が主張を取り下げることはありません。しかし、日米が待ち構えている海域での戦闘は、やれば中国は負けます。ですから中国は「今は」やりません。

日本の尖閣国有化という、アメリカの挑発に対して、中国は日本企業を焼き討ちしました。
しかし反発はそこまででした。アメリカはそこを見ようとしたのでしょう。

しかし、アメリカの意図で日中がいつまでも争うのは愚かなことです。
尖閣諸島を自主的に中国に返還することで、アメリカの意図を消すことができます。
「尖閣のトゲ」がなくなれば、日中は互恵関係を深めることができます。

しかし、今は日本はアメリカの属国ですから、勝手なことはできません。

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