尖閣諸島 身捨つるほどの祖国はありや

2013.03.19 の記事

鬼才寺山修司(右の写真)に次の歌があります。

マッチ擦る つかの間海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや

いま、尖閣諸島を守れ、そのためには中国との一戦も辞さず、日本人は血を流せ、という主張が声高に言われています。
いやいや、そこまでするつもりはない・・・・とためらう人も多いでしょうが、「尖閣諸島を守れ」と主張することは、中国が攻めてきたら戦うということです。

私は、家族や共同体や国を守るために命をかける、ということは、あるべきだと思っています。特に男は、サルでもオオカミでもアザラシでも、生物的にそういう生き物ですから、イザという時に逃げていては価値がありません。

福島事故のとき菅元総理が、命をかけてやってくれ、と東電や現場を鼓舞したことは、正しい判断であり、すぐれたリーダーシップだったと思いますし、現場は賞賛されるべきです。
しかし、尖閣諸島に自分や子や孫の命をかける価値があるのか?
先日、尖閣諸島に関する私の一連の論評を読んだ方から、メールをいただきました。
その方が、関西学院教授の豊下楢彦氏の、岩波現代文庫「尖閣問題とは何か」を読むようにと薦めてくれましたので、さっそく読んでみました。

豊下氏は1945年生まれの京大法学部卒の国際政治学者です。
私より少し先輩になります。

私は現在の国際政治の観点から尖閣問題を論ずるような知識を持っていませんし、そこまで詳細に調べようとも思いませんから、豊下氏の論述に対しては、そんなものかと思って読むだけでした。

ただし、豊下氏の論点で3点ほど、それは違うのではないか、というところがありましたので以下に述べます。

豊下氏は、尖閣諸島が日本の領土であることは国際法上は明白だ、と断定しています。
そしてその根拠として3点を挙げています。

豊下氏の論拠

1.P34 P58  尖閣諸島の日本編入閣議決定(1895年1月)と、日清講和条約による日本の台湾領有(1895年4月)との間には3ヶ月もあるから、この二つは別のものであり、国際法上議論の余地はない。
2.P59  国際法的には、先占する国の領有意思が表明され他国がそれを知りうる立場にあれば十分なのである。
3.P45  1895年の日本による正式の領土編入以来、75年間にわたって中国や台湾から尖閣諸島について何らの要求もいかなる抗議もなく、日本として「平和的」に国家機能を発現してきたにもかかわらず、1971年段階になって初めて両国が領有権を争って正式な抗議や主張を展開し始めたのであって、そうした主張は国際法上の意味を持たない。

豊下氏の論拠に対する疑問

豊下氏は以上の3点を持って、国際法上まったく問題はない、すなわち、「国際司法裁判所で勝てる」と言っているわけですが、私は、そうは問屋がおろさないだろうと思います。

1. まず、二つは別のものであり という主張ですが、3ヶ月あれば別のものに見なされる、ということが国際法上妥当かどうか、裁判所で受け入れられるかどうか、いささか疑問なしとはしませんが、仮にそうだとしても、ここで考慮すべき事実があります。
それは、その閣議決定は、清国の全権大使李鴻章が講和談判のために日本に到着する、たった2週間前だったということです。当時の旅程で言えば、それは李鴻章が北京を出発した頃だったでしょう。「李鴻章、北京を出発」という情報は日本政府に届いていたはずです。
そして、到着してから3ヶ月交渉が続いたわけです。
尖閣編入は日本の10年来の野望であり、それを、清国や列強を恐れて10年間躊躇してきたわけですが、それをなぜ急に、李鴻章が来る2週間前に決定したのか。その意図は簡単明瞭で、そのタイミングを外せば、尖閣は日清談判の議題になってしまうからです。その前に取ってしまえば、取り得だ、ということです。

2. 先占は、他国がそれを知りうる立場にあれば それで成立するという主張ですが、これは逆に言えば、他国がそれを知り得る立場になければ、先占は成立しないということです。
現実に日本政府はどうしたかというと、尖閣編入を閣議決定して、それを一切、他国には知らせなかったのです。その意図も簡単明瞭で、講和交渉の2週間前にそんな勝手な閣議決定をしても、そんな話が清国や欧米列強に通るとは思えなかったから、だから黙っていたのです。
そして日本政府は文字通り、「何食わぬ顔」で清国との講和交渉を3ヶ月も続けたのです。

3. 豊下氏は「75年の空白」とサブタイトルをつけています。たしかに75年間にわたって何の要求もなかったのでしょうが、それについては中国側に同情すべき事情があります。
下図は、尖閣の領有者の変遷と、その時の大陸の状況を図示したものです。

1895年に、誰にも知られることなく日本は尖閣を領有しました。その直後に、台湾本島という、尖閣の何万倍もある土地が日本に編入されました。簡単にいえば、清国にとって、尖閣などどうでもいい小さな話になってしまったのです。台湾を取られてしまって、尖閣のことをゴチャゴチャ言っても仕方ありません。
この時、台湾は熱病だらけで首狩り族がいる未開の土地で、日本がこれから開拓するという状況でしたから、とりあえず尖閣諸島は沖縄の行政区に入れられました。このことが実は心理的に微妙な影響があったと思われます。もし日本政府が尖閣諸島を台湾総督府の行政区分にしていたら、たぶん、尖閣は敗戦とともに中華民国に返還されていたでしょう。
日清戦争に敗れた清国は列強の餌食となって疲弊してゆき、1911年に孫文らの辛亥革命で中華民国が成立しました。そして満州事変、日中戦争、国共内戦、と大陸は激動します。

1945年に日本は戦争に敗れ、台湾を中華民国に返還しました。しかし、沖縄はアメリカが占領し、沖縄の行政区に入っていた尖閣諸島もアメリカの支配下になりました。
そして1972年に沖縄が日本に返還され、尖閣諸島も一応、日本の領土に戻りましたが、中国がそれに異議を唱えたわけです。
空白の75年というのは、こういう状況の75年です。

大日本帝国が領有していた50年間については、台湾ごと取られているのですから、清国も中華民国も文句は言えません。ですから、この期間を空白の75年として加算するのはフェアではありませんし、国際司法裁判所で通るとも思えません。

そもそも、清国も中華民国も、尖閣諸島が台湾とは別に日本領になっていたことを知らなかったのではないかと思われます。それを知っていたのは世界中で日本政府だけだったのですから。台湾が取られて、尖閣もそれにくっついて行った、と清国も中華民国も50年間ずっとそういう認識だったのではないでしょうか。

ではアメリカが支配していた27年間に文句を言うべきだったのか。これも中国側から見ると、なかなか難しい事情があったと思われます。とにかく蒋介石と毛沢東が食うか食われるかの激闘をしていたわけで、尖閣どころではなかったでしょう。蒋介石はアメリカに支援されていましたし、中国共産党はアメリカと交渉の窓口がありませんでした。それにもちろん、アメリカの占領下にある尖閣のことを、日本と交渉しても無意味です。

話の持って行き場がなかったわけで、ようやく沖縄が日本に返還されるタイミングで、台湾も中国も尖閣の領有権を主張し始めたわけです。こういうわけですから、それまでの75年を「空白」と断じてよいのか、大いに疑問です。

以上の理由で、国際法上何の問題もないという豊下氏の主張は大いに疑問です。
国際司法裁判所では通らないだろうと思われます。

日本から、国際司法裁判所に提訴すべきだ

日本政府は領土問題は存在しない、と言ってきました。それに疑問を呈した丹羽前中国大使は、軟弱外交として更迭されました。
領土問題は存在する、と主張した鳩山氏は、小野寺防衛大臣から国賊と言われました。何とも馬鹿げた非合理な対応です。
領土問題の存在を認めると中国を利することになる、ということらしいですが、中国に有利だろうが日本に有利だろうが、現に日中台の船が尖閣でせめぎ合っているのですから、これが領土問題でないはずがありません。「ない」と言えば「ない」ことになる、というのは日本人特有の無防備で幼稚な考えです。

下は3月13日の毎日新聞の記事です。

国際司法裁判所は、原告、被告の双方が合意しないと裁判にならないということです。これまで日本は、中国が提訴しても応じない、という裁判忌避の方針でしたから、自民党政府は一歩前へ出たということでしょうか。
谷内氏は外務省のエースだった人です。その人が絶対勝てると言うなら、何も中国から提訴されるのを待たずに、日本側から提訴したらよいのです。それで結着がつけば、どっちに転んでもすっきりします。それが、隣人同士の争いごとを解決する理知的な方法です。ドンパチやるのは最低で、それは隣人同士で家に放火しあっているようなものです。

漁夫の利、ということもあります。豊下氏は本の表紙をこう説明しています。

「海上保安庁の巡視船と中国の海洋監視船が並走する緊迫した情景の背後に星条旗をあしらうことで、尖閣問題の核心を表現しようとした・・・・・」

山田孝男氏の迷走

毎日新聞論説委員の山田孝男氏は「風知草」という署名コラムを書いていて、いつも切れ味の鋭い冷静な主張に感心していますが、今回はいささか迷走気味です。

山田氏は、

相手が強硬だから、失っても損害は少ないからと首をすくめ、 国際法無視の暴走を黙認していいかという問題だ

と「まとめて」しまっていますが、こういう言い方が有無を言わせぬ「右翼の主張」です。
私は、相手が強硬だから、ということで尖閣問題を論じているわけではありません。 相手の言うことに、歴史的、地理的な合理性がある、と言っているのです。ところが、山田氏はそういう反論は許さないわけです。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」史観に影響されたせいか、昨今は、明治時代の父祖たちの行動をすべて肯定するような風潮があります。 しかし明治の日本は、列強に追いつけと必死で頑張って近代国家を建設していった、という称えるべき面も多々あったのですが、その一方で、アジアにおいて突出した「凶暴な国家」であったことも事実です。
明治維新後、いきなり征韓論が唱えられました。朝鮮に出兵して李王朝をこらしめるというのです。その征韓論に敗れた西郷は薩摩で血みどろの内戦を起こしました。内戦に勝って薩摩を征服した明治政府は、そのまま薩摩預かりの琉球に攻め入り、琉球王朝を滅ぼし、琉球王を東京に連れ去りました。その直後に、明治政府は琉球を清国との交渉の材料に使い、井上外務卿は琉球の南半分を清国に譲る条約に調印しました。尖閣どころの話ではありません。
豊下氏によると石垣島の住民らは強硬な抗議をしたそうです。それはそうです。何百年も琉球王国の民であった人々を、外来の日本がいきなり半分にして、日本の国益のために南半分を住民もろとも他国に売り飛ばすというのですから、琉球の人たちが怒るのは当然です。
幸いなことに条約は実行されませんでした。李鴻章が反対したからです。よこすなら全部よこせ、ということだったのでしょう。

ともかく日本はそんな国だったのであり、為政者から見た国境問題、あるいは領土問題とは、その程度のことなのです。だから、身捨つるほどの祖国はありや、なのです。

その後日本は、朝鮮の動乱に乗じて半島に出兵して清国と戦争をし、それに勝って清国勢力を朝鮮半島から追い出し、台湾と遼東半島を割譲させました。さらに日本は、日本の当時の国家予算4年分の賠償金を清国から奪いました。世界全体が帝国主義の弱肉強食の時代でしたから、日本だけが悪いわけではありませんが、とにかく、清国は「凶暴な隣国」から大被害を受けました。
尖閣諸島はそのような時代に、不道徳な方法で日本に編入されたのです。 「何食わぬ顔」をして講和談判の席についた、父祖の行為は不名誉で恥ずべきものです。

山田氏は、国を守る決意だ、国の威信だ、国際法を守れ、と勇ましく言います。しかしそれを言うなら、日本政府が進んで国際司法裁判所に提訴すべきです。それが人類の英知というものです。

もし尖閣に日本人が住んでいて、その人々が中国の圧迫を受けているなら、少し話が違いますが、実際には尖閣は無人の「岩」にしかすぎません。
何であそこがイギリスなの?と日本人はみんな驚いたものですが、ともかくフォークランドにはイギリス人が数千人住んでいましたから、それらの人々をアルゼンチン軍から救うということで、サッチャー首相の決断は内外から支持を得ました。しかし、もしフォークランドが無人の「岩」で、そこでサッチャーの命令で英兵が数百人も戦死していたら、サッチャーは国中の怨嗟と世界中の嘲笑を浴びていたでしょう。

山田氏がけしかけているのは、結局はそういうことです。

尖閣には、日本人が命をかけるような価値も理屈も道徳もありません。さっさと裁判をすればいいのです。
マッチ擦る つかの間海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや

寺山が少年のころ父親が南方で戦死したことも、この歌の背景にあります。
それより、原発をどうするか、です。これこそが切実な領土問題です。

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