尖閣諸島は中国の領土である 1

2013.01.23 の記事

先日、仕事で沖縄に行きました。

これまで上空を通過することは何度もあったのですが、降り立つことはなく、65才にして初めて沖縄に行きました。そこで沖縄のことを知るために、初日にまず那覇の博物館に行きました。

そこで意外な発見をしました。

那覇の博物館↓  立派です。

日本は尖閣諸島を放棄していた

むろん歴史を研究している人にとっては既知の事実でしょうが、新聞やテレビが言わないことです。それは明治維新(1868年)のあと、1879年に日本と清国の間で国境を確定する交渉が行われ、時の井上馨外務卿(長州の井上聞多)は、先島諸島(石垣、宮古、西表など)を清国領とし、沖縄本島以北を日本領とすることで交渉を妥結していたということです。それが展示されていました。

1879年 日清国境 交渉妥結ライン↓

ただし 交渉は妥結しましたが、最終的に当時清国の最高責任者だった李鴻章が反対して、妥結事項は発効せず、やがて1894年に日清戦争が始まりました。

李鴻章は、それまでの歴史的経緯や日清の力関係から考えて、先島諸島だけでなく沖縄本島までを清国が領有するのが当然だと考えて、妥結内容に反対したのです。それがかなわなかったので、そのうち戦争をして日本をやりこめてやろうと思っていたところが、案に相違してその戦争で負けてしまい、先島諸島はおろか台湾まで日本にとられてしまったのでした。

ウィキぺディアの「尖閣問題年表」に以下の記述があります。

1879年:3月11日琉球藩の廃止を布達し、鹿児島県に編入。同年4月4日に沖縄県を設置。国王(藩主)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられる。
琉球の領有権を主張した清国に対し、日本は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに旧琉球王国南部の先島諸島の清国への割譲を提案し仮調印したが、李鴻章の反対により琉球帰属問題が棚上げ状態になった。(日清戦争により撤回)

清国が日本を最恵国待遇してくれれば、琉球の南半分を差し上げますということです。
李鴻章がOKと言えば、そうなっていたのですから、発効しなくて幸いでしたが、明治政府は尖閣諸島どころか、先島諸島全部を放棄するつもりだったわけです。

千島樺太交換条約

同じ頃に、日本とロシアの間で国境の確定交渉が行われました。その結果、千島樺太交換条約というものが結ばれ、日本は樺太の領有権を放棄してロシアに譲り、その代わり千島列島全体を日本の領土としました。その後、日本は日露戦争に勝利して、樺太の南半分を日本領として加えました。

私は中学の日本史で、この千島樺太交換条約を習い、ふーん、領土とはずいぶん簡単にやりとりするものなんだな、と思ったものでしたが、このように、国境周辺の領土というものは、物のやりとりと同じように取引きされてきたのです。その土地にどんな人が住んでいるか、その人たちはどう考えているか、などはまったくお構いなしで、帝国主義列強が、切った張ったをやっていたわけです。アフリカの国々の国境線がほとんど直線であることも、そのことの現れです。

いま日本で、一部の人々が、領土を守るために国民は血を流せ、とあおっていますが、領土とか国境とかはこの程度のもので、地球に線が引かれているわけではありません。

その後、日本は大東亜戦争に敗れて、カエルの父さんが息子ガエルに自慢して、お腹を膨らませて最後に破裂してしまったように、膨張した領土のすべてを失いました。満州も朝鮮も失い、樺太も千島も失い、台湾も沖縄も失いました。そして日本は本来の、本州4島とその周辺諸島を領有する国に戻ったのです。

ポツダム宣言とカイロ宣言

最近、外務省OBの孫崎氏が以下の事実を指摘しています。

http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/spa-20121031-313550/1.htm
ポツダム、カイロ宣言の内容を知らない日本人【孫崎享×田中康夫】Vol.2
(SPA! ) 2012年10月31日(水)配信

孫崎:
領土問題の基礎とは、戦後日本の出発点であるポツダム宣言の第8条です。そこには「日本国の主権は本州、北海道、九州、四国に限定される」、そして「その他の主権の及ぶ島々は連合国が決める」と書いてある。そうすると、本州、北海道、九州、四国はたしかに“固有の領土”と呼べるのですが、その他の島々に関しては、“固有の領土”という理屈が成り立たないんです。
田中:
ここが極めて悩ましい点ですが、ポツダム宣言第8条には「カイロ宣言(※2)の条項は履行すべき」とも書かれている。
孫崎:
その「カイロ宣言の条項」とは、「日本が中国人から奪った地域は中華民国に返還する」というものです。日本政府は、「尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らか」と言いますが、中国のほうでは「日本が奪い取った地域だ」と主張しています。
政府は「中国が領有権を主張し出したのは尖閣に石油資源があることがわかった’70年代以降のことだ」という見方を広めていますが、これは事実と違います。すでに’50年代の初め、周恩来が「日本との講和はポツダム宣言とカイロ宣言を基礎とすべきだ」と発言しているんですね。日本はこの宣言を受諾して降伏した。将来の日本領土に言及しているのは第8条で、その全文は「『カイロ』宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」。日本国の主権は本州、北海道、九州、四国と、連合国が決定するその他の島々に限られると謳っている。

※2:カイロ宣言
米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、中国の蒋介石主席によって’43年12月1日に発表された連合国の対日基本方針。第一次世界大戦以降に日本が獲得した太平洋の島々と、中国から奪った一切の地域の返還(満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト)、朝鮮の独立などをその内容とする。

つまり、日本が中国から奪ったものはすべて中国に返せ、これが戦後処理のルールです。

琉球の歴史

那覇の博物館で琉球の歴史の展示を見て回りました。そのあと嘉手納基地や普天間の基地を高台から眺め、首里城を散策し、南部戦跡を訪れ、ひめゆりの塔を見学し、平和の礎(いしじ)を見ました。
平和の礎↓

琉球は、昔から中国と交流していました。明朝と清朝の時代です。琉球王は中国から冊封(さくほう)を受けて王に任命されるという形式でした。王が代わるたびに冊封使が中国からやってきて、任命式が行われ、琉球は中国から多くの物を与えられ、交易を許されて栄えてきました。那覇港の久米という地域には清国人がたくさんやってきて、琉球王から土地をもらって定住し、中国の技術や文化を琉球に伝えました。琉球からも中国へたびたび使節が派遣されました。

琉球王の玉座↓ 首里城

日本との関係では、1156年、保元の乱で敗れた源氏の鎮西八郎為朝が京都から琉球に逃れ、そこで豪族の娘との間に生まれた子が、舜天と名乗って初代の琉球王になったという言い伝えがあります。琉球の史書にもそれと類似のことが書かれているそうで、この時期に日本本土との交流があったことは事実のようです。

その後も交流はあったのでしょうが、琉球が日本史に登場するのはかなり後になります。

1609年に、薩摩が3千人の兵を率いて琉球を侵略し、ほとんど非武装の首里城を陥落させて琉球王を屈服させ、薩摩は江戸幕府から琉球の領有を認められました。それ以後、琉球は薩摩の支配下になりましたが、実際には軍事占領ではなく、薩摩の数十人の官吏が那覇港に駐在するだけでしたので、琉球と中国との関係はその後も続きました。薩摩は奄美大島までを直轄地とし、沖縄本島は琉球政府の自治に任せたのでした。

その後、琉球王朝は、琉球王の交代、徳川将軍の交代などのたびに、江戸に使節を派遣するようになりました。使節は珍しい外国からのお客様として、江戸までの長い道々、沿道の各地で熱烈に歓迎されました。

沖縄の言葉に、「めんそーれ」という言葉があります。ようこそいらっしゃいませ、という意味ですが、沖縄の南部戦跡を巡るバスで、バスガイドさんから教えてもらったことですが、語源は「参り候らえ」という日本の武士の言葉なのだそうです。また、ありがとう、という意味の琉球語は「にふぇーでーびる」ですが、これも「二拝で侍る」というのが語源だそうで、2回お辞儀して側にはべる、ということで、やはり元は日本の古い言葉です。日本語がこれほど浸透しているのは、薩摩の影響もかなり大きかったということでしょう。

明治になって、1879年、日本政府は廃藩置県を琉球にも適用し、熊本の鎮台兵を派遣して首里城を占拠し、琉球王は首里城から退出させられて東京に移送され、爵位を与えられて東京に住むようになりました。これによって琉球王朝は滅亡しました。

そして同じ年の1879年に、先述したように、日清間の国境確定交渉が行われ、井上馨外務卿は宮古島や石垣島などの先島諸島を清国領とし、沖縄本島以北を日本領とすることで、清国側と合意したのです。
井上馨は長州人で、長州5傑として誉れ高く、伊藤博文より家格も年齢も上で、明治の元勲として活躍した人です。

尖閣諸島の日本編入

しかしその合意は清の最高責任者である李鴻章の反対で発効しませんでした。

その15年後の1894年~95年の日清戦争が起こり、それに日本が勝利し、李鴻章が日本にやってきて、1895年の4月に下関で講和条約が結ばれました。敗戦によって清国は、琉球分割どころか、台湾までも日本に割譲することになりました。

しかし、これで尖閣諸島もオマケで付いてきたのかというと、そうではありません。
下関条約には尖閣諸島の領有権についての記載がないのです。

なぜか?

実は尖閣諸島は、日清の講和会議が始まる直前の1985年1月に、日本政府の「閣議決定」により、日本(沖縄県)に編入されていたからです。

ウィキペディアに以下の説明があります。

日本政府は尖閣諸島の領有状況を1885年から1895年まで調査し、世界情勢を考慮したうえで隣国の清国など、いずれの国にも属していないことを慎重に確認したうえで閣議で決定し沖縄県に編入した。

「隣国の清国」とサラッと書いてありますが、このとき日清両国は戦争の真っ最中です。

10年間調査した上で慎重に対処したという記述で、これが現在の日本政府の見解ですが、なぜ慎重だったかというと、ウィキペディアの年表に以下の記述があります。

1885年9月22日:沖縄県令西村捨三は、「久場島、魚釣島は、古来より本県において称する島名ではあり、しかも本県所轄の久米・宮古・八重山等の群島に接近している無人の島であるので沖繩県下に属しているのであるが、『中山伝信録』(中国の古文書)に記載されている釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないと言いきれないので、慎重に調査する必要がある」と、内務省に報告。

実際には、尖閣諸島とはまさに、「中山伝信録」に記載されている釣魚台などのことで、沖縄県令は知らなくても、日本の海軍も政府もとっくに承知のことです。

日本は清国からクレームが来るのを恐れて、この沖縄県令からの報告のあと10年間、決定を先延ばしにしていました。しかし1895年1月14日に突然、日本編入の閣議決定をします。

そのときは、どういう状況だったか。

日清戦争で清国の海軍はほとんど壊滅し、東シナ海の制海権は完全に日本側にあり、日本海軍は好き勝手に台湾に攻め込むなどしていました(まぁ戦争中ですが)。
そして1月末に、清国の講和大使が日本に到着しました。
まさに講和会議が始まる直前です。

しかし、尖閣諸島の日本編入は世界に公表されませんでした。
ウィキペディアの年表は以下のように記述しています。

1895年1月14日:日本政府が尖閣諸島の沖縄県への編入を非公開の閣議で決定し、正式に日本領とした。しかし、この決定は尖閣諸島を今まで領土とした国がないことから周辺国には特に伝えられなかった。

周辺国と言っても、周辺には清国しかないわけです。
目の前に座っている清国の講和全権大使にも、このことは知らされず、会議が進められ、清国は台湾と澎湖島と遼東半島を日本に割譲し、さらに莫大な賠償金を支払いました。

中国大使館が興味深い事実を提示しています。

釣魚島問題の基本的状況
2012/09/15
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/diaoyudao/jibenqingkuang/

十九世紀、英国、フランス、米国、スペインなど列強の関連文献と地図も、釣魚島が中国に属することを認めている。1877年、英国海軍が作成した「中国東海沿岸の香港~遼東湾海図」は釣魚島を台湾の付属島嶼とみなし、日本の南西諸島とはっきり区別している。同図はその後の国際交流で幅広く使用され、「馬関条約」は同図を使って澎湖列島の範囲を決めた。

馬関条約とは下関条約のことです。

日清講和会議のテーブルには、英国海軍の地図があり、日清両国は割譲の対象である、台湾の西側にある澎湖列島の範囲を決めるのに、その地図をはさんで議論していたわけですが、その地図には、釣魚台は清国に属することが明示されているのですから、講和会議では、日本側が釣魚台の日本編入の事実を伏せていたことは明白です。

会議の直前に釣魚台を日本に編入したことが清国にばれると、交渉条件が変わってきます。その分、賠償金を減らしてくれ、というようなことになるに決まっています。ですから日本側は、知らぬ顔をして交渉を進めたわけです。

また、もし釣魚台が講和会議のテーブルに乗っていたら、仮に正式に清国から割譲されたとしても、それはカイロ宣言の対象になりますから、敗戦によって台湾や澎湖島と同じく中国に返還することになったはずです。

その尖閣諸島が今でも日本領であることについて、中国は、「日本は尖閣諸島を盗んだ」と言っています。そう言われても仕方ありません。

林子平の地図

京大教授だった井上清氏(過激な思想で有名だった先生です)の論考に、江戸時代の後期に海防論を唱えた林子平が書いた、琉球と清国との交流の航路図が紹介されています。

http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html
「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明 井上清

それによると中国本土から琉球に渡る途次に、いくつかの島づたいに渡航するわけですが、その地図には釣魚島(釣魚台)が属する諸島は、はっきりと中国本土に属するピンクの色分けがしてあり、いくつかの島を経て、これより先は琉球国、となっているのです。

(ただし林子平の地図は正確ではないという批判もありますが)

林子平が書いた航路図↓

井上清教授はこの論考で、尖閣諸島は中国領であり、日本の帝国主義者たちが清国から奪い取ったものだと、明確に結論しています。

そして近代の海洋図で明らかですが、尖閣諸島は中国本土の大陸棚の上にあり、琉球諸島とは別の棚の上なのです。

大陸棚の図↓

どちらの棚に載っているかは、領土問題などでよく議論されます。
尖閣諸島の場合は、沖縄との間は琉球海溝と呼ばれる深い溝になっていて、そこを黒潮が流れています。海の中に川があるようなものです。現代の航海術ならさして問題になりませんが、昔の航海術で、しかも漁民の船では、この川を越えるのはそう簡単ではありません。

台湾や福建省の漁民が釣魚台に行って帰るのにそれほど苦労はありません。漁民がしょっちゅう行っていて、だから釣魚台という中国名がついているのです。魚がたくさんいるのでしょう。
しかし琉球側から行くのはかなりたいへんです。北京への使節くらいの大型船でないと、なかなか溝は渡れないのです。

尖閣の名の由来

1900年に沖縄の黒岩恒(当時沖縄県師範學校博物農業教師教諭)という教師が、これらの島を調査して論文を書くときに、「尖閣諸島」と名付けました。

それまでは中国では釣魚島(台)と呼ばれており、日本名は文法が逆ですから、ひっくり返して「魚釣島」と呼ばれていました。
では「尖閣」とはどこから来た名前かというと、19世紀に英国海軍がこのあたりを調査して、pinnacle islands (尖塔のような島々)と名付けて海図に記し、それが日本海軍に採用されて、そのままpinnacle と呼ばれていたのですが、それを黒岩氏が漢語にして尖閣と名付けたという経緯です。日清講和会議で使われた地図にも、pinnacle と書いてあったのでしょう。

蘇鉄はあるか

かつて山中貞則総務長官が昭和天皇に伺候して、「山中、尖閣に蘇鉄はあるか」と下問され、知らないと答えて退出したというエピソードがあります。蘇鉄は鳥や海流ではなく人によって運ばれ、蘇鉄は琉球にはあるが、台湾や中国にはない、だから尖閣に蘇鉄が生えていれば、それは琉球と尖閣との間に人の交流があった証拠だという、昭和天皇の生物学者としての考えでした。

そして実際、尖閣には蘇鉄が生えているので、尖閣諸島は琉球に属するという話の、1つの傍証とされています。

しかし、この話には根本的な間違いが2つあって、昭和天皇の仮説は成立しません。

その第1は、特殊な蘇鉄でもない限り、蘇鉄は中国南部から台湾にかけて、どこでも自生しているということです。

第2には、仮に何か特殊な蘇鉄についてその仮説が成立しても、尖閣諸島は琉球と清国(北京)との間にあって、琉球の船も清国の船もそこを通り、時によっては島に寄ったり、あるいは漂着したりしたでしょうから、尖閣にその特殊な蘇鉄があっても、それは清国の船が琉球から運んだかも知れませんし、琉球の船が運んだとしても、清国との交易の途次だっただけかも知れません。
つまり、蘇鉄の有無は、琉球が尖閣諸島と交流があった証拠にはなりません。

領土欲は物欲である

日本が支配している領土で、そこに人が住んでいて、その人々が日本への帰属を切望しているならば、それは日本そのものですから、日本はすべての国力をもって、その領土を断固として専守防衛すべきです。そうでなければ国としての意味がありません。

しかし、人がひとりも住んでいない土地はどうか。

それを領土と言う理由は「物欲」でしかありません。
物欲が悪いわけではありませんが、物欲ならば、損得勘定をきちんと計算すべきです。

日本は物欲によって、満州や樺太や千島や琉球や朝鮮や台湾を領有してきたわけですが、損得勘定で言えば、すべてを失った今ではむろん大赤字ですが、しかし実は領有していた当時から持ち出しの方が多く、植民地は経営としてはほとんどペイしていませんでした。国家予算の多くを植民地の経営に使い、植民地からの収入はそれを下回っていたのが現実です。

いま尖閣を領有することのメリットは、漁業と石油(本当は存在しないという話ですが)だと考えられます。デメリットは、それを維持するのに防衛費などの経費が相当にかかることと、対中関係が改善されず、日本経済が長期的に打撃を受け続けることです。
メリットとデメリットと、どちらが大きいか。
物欲によって領土を得たいなら損得勘定をよくよく考えるべきでしょう。

一部の人々の妄想

最近、尖閣諸島は日本の固有の領土だから、何としてでも守らなければならない、そのためには中国との戦争も辞さない、若者よ国を愛する気概を持て、血を流せ、とさかんにあおり立てる人がいます。

しかしそれは妄想です。

尖閣諸島は父祖伝来の土地でもないし、人が住んでいるわけでもなく、かつてカツオ節工場があったくらいで、今どきあんな離島では何もできませんから、だから誰も住まないのです。そんな島を守るために日本の若者を死なせてはなりません。

別のよくある妄想は、尖閣で譲れば沖縄までとられる、というものです。

これについては興味深いアンケートがありました。中国の街頭でインタビューすると、「日本が攻めてくるんじゃないか」と怖がっている中国人がたくさんいたのです。

これには驚きました。

今の日本人には、日本が中国に攻め込むことなど考えられません。

しかし日本がかつて中国に攻め込んだのは事実ですから、中国人がそれを恐れるのは、考えてみれば当然です。逆に、我々日本人が、中国が日本に攻めてくるのではないかと恐れるのは、中国人から見たら、何を妄想してるんだと、呆れられることになります。つまり、中国が沖縄に攻め込んでくる、というのは、日本人の妄想でしかないのです。

中国が沖縄に武力行使をして来るとは考えられません。それによって中国が失うものが大きすぎますし、国際的な非難でそれは阻止されるでしょう。

起こりそうもないことを過剰に心配することは、かえって事態を紛糾させます。

安倍論文

安倍総理が先月、日本国総理大臣として論文を書いて外国誌に発表しています。

http://www.project-syndicate.org/commentary/
a-strategic-alliance-for-japan-and-india-by-shinzo-abe

Shinzo Abe
Shinzo Abe is Prime Minister of Japan. Full profile
Dec. 27, 2012 Email | Print

Asia’s Democratic Security Diamond

翻訳(けんけんがくがく氏による)

http://kennkenngakugaku.blogspot.jp/2013/01/blog-post_10.html

にもかかわらず、ますます、南シナ海は「北京の湖」となっていくかのように見える。アナリストたちが、オホーツク海がソ連の内海となったと同じく南シナ海 も中国の内海となるだろうと言うように。南シナ海は、核弾頭搭載ミサイルを発射可能な中国海軍の原潜が基地とするに十分な深さがあり、間もなく中国海軍の新型空母がよく見かけられるようになるだろう。中国の隣国を恐れさせるに十分である。
これこそ中国政府が東シナ海の尖閣諸島周辺で毎日繰り返す演習に、日本が屈してはならない理由である。軽武装の法執行艦ばかりか、中国海軍の艦艇も日本の 領海および接続水域に進入してきた。だが、このような“穏やかな”接触に騙されるものはいない。これらの船のプレゼンスを日常的に示すことで、中国は尖閣周辺の海に対する領有権を既成事実化しようとしているのだ。
もし日本が屈すれば、南シナ海はさらに要塞化されるであろう。日本や韓国のような貿易国家にとって必要不可欠な航行の自由は深刻な妨害を受けるであろう。両シナ海は国際海域であるにもかかわらず日米両国の海軍力がこの地域に入ることは難しくなる。

自己陶酔した勝手な妄想です。

中国が海洋の石油を求めて南シナ海に進出して、周辺諸国が脅威を感じているのは事実ですが、日本が尖閣で屈してはならないのは、中国海軍の南シナ海への進出を封じ込めるためだ、そのために血を流せ、と言われても国民は納得できないでしょう。

また現実問題として、日本が尖閣で頑張れば、中国の南シナ海への進出が止まるなどということはありません。尖閣諸島と南シナ海とは違う場所です。いくら日本が尖閣で頑張っても、中国海軍にとって尖閣は南シナ海への通路ではありませんから、中国は自由に南シナ海へ出て行けます。

南シナ海と尖閣の位置↓

安倍総理の論文は「アジアのセキュリティダイヤモンド」と題されています。インド、オーストラリア、日本、アメリカが協力して、インド洋から南シナ海までをダイヤモンドのように守り、中国の進出を食い止めようということです。

しかし仮に安倍総理のこの考えを認めたとしても、それと尖閣諸島の帰属の問題とは別です。中国海軍を封じ込めたいがために、尖閣問題で屈しないぞ、と主張するのは筋が違います。逆に中国側から見れば、だましとられた島を拠点に、包囲網を作られたのではたまりません。恨みは深くなるばかりでしょう。

それに安倍総理は、これから中国と交渉するとき、どんなに友好的なことを言っても、実はコイツの頭の中はこうなんだと思われてしまうわけですが、それで大丈夫なのでしょうか?
また、日本の総理大臣が世界に向けて発信しているこのような考え方を、日本のマスコミが国民にまったく伝えないのは大いに疑問です。

石橋湛山の小日本主義

石橋湛山(いしばしたんざん 1884-1973)は1956年に首相に就任し、直後に脳梗塞になり、国会に出られないので2ヶ月後に潔く退任して岸首相に後を託しました。

石橋湛山↓

石橋湛山は小日本主義の主張で有名です。氏の評論を2つ紹介します。

大正元年(1912年)『東洋時論』  湛山28才
第一次大戦参戦(ドイツへの開戦)と対支21ケ条要求について
吾輩は我が政府当局ならびに国民の外交に処する態度行動を見て憂慮に堪えないものがある。その一は、露骨なる領土侵略政策の敢行、その二は、軽薄なる挙国一致論である。この二者は、世界を挙げて我が敵となすものであって、その結果は、帝国百年の禍根をのこすものといわねばならぬ。~英国がドイツに向かって戦を宣するや、我が国民は一斉に起って論じて曰く、ドイツが青島に拠るは東洋の禍根である。日英同盟の義によってドイツを駆逐すべし、南洋の独領を奪取すべし、帝国の版図を拡げ大を成す、この時にありと。当時吾輩はその不可を切言したけれども、朝野を挙げて吾輩の説に耳を仮すものなく、ついにドイツと開戦の不幸をとなり、幾千の人命を殺傷した上に、これらの領土を維持するために相当大なる陸海軍の拡張が必要のみならず、独米の大反感を招けるは勿論、あるいは日英同盟さえ継続し得ぬ破目に陥りはせぬかを危ぶまれる。実に対独開戦は最近における我が外交第一着のそして取り返しのつかぬ大失策であって、しかしてこれ一に、考えざる領土侵略政策と、軽薄なる挙国一致論の生産物といわねばならぬ。

対支談判は、ドイツと開戦して青島を取ったことから糸を引いて出た失策ではあるが、その我が帝国にのこす禍根に至っては一層重大である。我が要求が多く貫徹すればするほど、世人はこれを大成功として祝杯を挙げるだろうが、吾輩は全く所見を異にして、禍根のいよいよ重大を恐るるものである。このたびの事件で、我が国が支那およびドイツの深恨を買えるは勿論、米国にも不快を起こさせたは争えぬ事実である。かつて世界が日本の手を以て、ロシアの頭を叩かせたように、これらの諸国は日英同盟の破棄を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、日本の立場を転覆せしむるか、それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。その場合は、今回得た物の喪失だけでは到底済まず、一切の獲物を元も子もなく、取り上げられるであろう。これ吾輩の対支外交を以て、帝国百年の禍根をのこすものとして、痛憂おく能わざる所以である。

大正四年(1915年)『東洋経済』社説  湛山31才
一切を棄つるの覚悟
我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。

石橋湛山は日本の帝国主義的野望と、国民の付和雷同を鋭く批判しています。それはやがて列強によって破綻させられる、と30年後の破局を予見しています。損得勘定からいっても割が合わないと言っています。

尖閣は中国に返し、竹島は韓国から返させる

以上見てきたように、尖閣諸島は中国の領土と考えるのが妥当です。

日本は、清国海軍が壊滅したあと、日清講和会議の直前に尖閣諸島を日本に編入し、その事実を世界に公表することなく、相手にも伏せたまま講和会議を行い、領土と賠償を得ました。

中国が怒るのはもっともです。
むしろ、ずいぶん忍耐強いな、と感心するくらいです。

日本人は、個人個人はおおむね高潔で心やさしく親切ですが、組織になると、しばしばこのように道義に反した、狡猾な浅智恵で行動することがあります。まったく恥ずかしいことです。
最近では原子力ムラと呼ばれる人々が、この類で、平気でウソをつきます。

では竹島はどうか。

これははっきりと日本の領土です。

江戸時代以来日本人が住みついて生活していた島です。
これを戦後、日本が武装解除されて抵抗できない時代に、李承晩の韓国軍が攻め落として領有しました。まったく不当な行為です。

竹島と尖閣は、1枚のコインの裏と表です。

竹島は韓国が日本から武力で強奪し、尖閣は日本が中国から武力を背景に詐取しました。

両方を解決する方法は、基準を1つにして筋を通すことです。
「領土を武力で奪うことは不当である」という1つの基準を適用することです。

この基準に従って、

尖閣諸島は、これまでの非礼を詫びて粛々と中国(中華人民共和国)に返還します。
竹島は、国際司法裁判所に提訴し、韓国に返還を求めます。
応じなければ国交を断絶し、一切の援助を停止します。
それで韓国はどうなるのか? それは韓国が考えればよいことです。

いま、日本から領土を奪った韓国と、日本に領土を奪われた中国が、日本を相手に共同戦線を張ろうという動きがありますが、まったく奇妙な連携です。こんな奇妙なことになるのも、日本が、片方で奪って返さず、片方で奪われて返せという、ダブルスタンダードだからです。

「尖閣のトゲ」を自分で抜けば、「領土を武力で奪うことは不当だ」という、現代においては当然のことを、堂々と主張できるようになります。中国の南シナ海への進出に対しても、厳しく批判できるようになります。

日本が自ら進んで尖閣諸島を中国に返還すれば、日中関係は劇的に改善されるでしょう。
日本は道理を重んじる国だ、と世界で高い評価が得られるでしょう。
そうなれば、国際世論を味方にして、竹島や北方領土の返還交渉を進めることができます。
韓国やロシアの国内世論も変化するでしょう。
損得勘定で言うならば、尖閣諸島を自主的に中国に返還することの利益は絶大です。

しかし実利だけでなく、わが日本国は世界の平和と繁栄のために、徳を重んじ、理非曲直を明らかにする国であってほしいものです。

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